Rotem Gura Sadovsky & Eran Segal 著
今月、Nature Conferencesが主催するHPP Globalカンファレンスのため、世界中の科学者、技術者、投資家がアブダビに集まりました。そこで議論されたのは、これからの医療は「症状が出てから対応する医療(reactive)」ではなく「予測に基づく医療(predictive)」へと移行するという大きな変革でした。その議論の中心にあったのは、ヒューマン・フェノタイプ・プロジェクト(HPP)という、私たちの健康管理のあり方を根本から変える可能性をもつ長期プロジェクトです。
HPPと世界で類いを見ない高密度なマルチオミクスデータセット
HPP は本質的にはデータを中心とした取り組みです。しかし、多くのヒトコホート研究とは異なり、明確な方針に基づくトレードオフを選んでいます。何百万人もの人々から最小限のデータを収集するのではなく、10万人の極めて詳細なデータを収集し、それを25年間にわたって追跡するのです。
コホート研究の代表例として知られるUK Biobankは、規模を重視し、大規模集団から臨床データやゲノム情報など限られた種類のデータを収集します。一方HPPは異なるアプローチをとっています。対象人数の広さよりもデータの深さを重視し、同じタイミングで数十種類のデータモダリティを収集します。
参加者は2年ごとに、ゲノム解析、プロテオミクス、メタボロミクス、マイクロバイオーム解析、画像診断に加え、歩行解析から握力測定までを含む幅広い生理学的評価を受けます。こうした定期的な包括評価の間には、実際の日常生活を反映するデータも継続的に収集されます。具体的には、2週間にわたる、睡眠トラッキング、持続血糖モニタリング、食事記録などです。
このように深さ・多様性・長期性を兼ね備えたデータ構造こそがHPPを独自のものにしています。
重要なのは、HPPが疾患コホートではないという点です。HPPは40〜70歳の健常人を対象とし、将来にわたって前向きに追跡調査します。目的は、疾患が現れる前にその兆候を捉えることです。中心的な問いは、臨床症状が現れる何年も前に、その前兆となる早期の生物学的シグナルを検出できるか、というものです。
HPPは、Eran Segal氏のもと、イスラエルのワイツマン科学研究所で開始され、現在はデータ及びAIの専門集団であるPheno.AIによって運営されています。その後、日本へと展開し、近くUAEにも拡大する予定です。また、コペンハーゲン大学のDELPHIコホートのように、他の組織が類似のコホートを開始するきっかけにもなっています。
新興技術が交わるHPP
HPP Globalカンファレンスでは、HPPが単独の取り組みではなく、急速に発展する複数の技術領域が交差する場所に位置していることが明確に示されました。
複数の講演者は、マルチモーダルな生物医学データを統合できるAIシステムの進展について紹介しました。現在、基盤モデル(foundation models)が次々と登場しています。あるモデルは個々のデータモダリティのパターンを学習し、また別のモデルは電子カルテ、臨床画像、分子データ、ライフスタイルデータなど、多様なモダリティを統合して学習します。
その一例として紹介されたのが、Gluformerです。これはEran Segal研究室とPheno.AIによって共同開発された生成モデルで、持続血糖モニタリング(Continuous Glucose Monitoring:CGM)のデータを用いて学習されており、血糖値が時間とともにどのように変化するかという動的なパターンを学習しています。
食事への反応や概日リズム(サーカディアンリズム)などのパターンをモデル化することで、Gluformerは将来の血糖値の推移をシミュレーションできます。こうしたシミュレーションにより、患者が異なるGLP-1受容体作動薬にどのように反応するかについて予測することができます。GLP-1受容体作動薬は近年急速に普及している治療薬ですが、すべての患者に同じような効果が得られるわけではありません。
Gluformerは主に単一のデータモダリティを学習するモデルですが、同じ研究グループが開発したHealthformerは、分子データ、臨床データ、ウェアラブルデータを統合することで、人間の健康状態を包括的に表現することを目指しています。Healthformerは、大規模言語モデル(LLM)が文中の次の単語を予測するように、患者の経過の中で次に起こる臨床イベントを予測します。このようなモデルが実現すれば、疾患の進行過程を予測できるだけでなく、将来発症する疾患を示唆する無症候期のシグナルを早期に検出できる可能性があります。
話題は予防医療から創薬・処方支援へと広がりました。ハーバード大学のMarinka Zitnik氏が「TxAgent」について紹介しました。これは、FDA(米国食品医療品局)の医薬品情報と数百種類の計算ツールを統合し、薬物相互作用や禁忌を推論するとともに、処方内容や投薬戦略の最適化を支援するシステムです。
一方、科学研究そのものの進め方という、さらに高いレベルのテーマでは、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の北野宏明氏が、ハイスループット実験(効率的に大量データを取得し解析する実験) (を自律的に設計・実行できる「AIサイエンティスト」の構想について紹介しました。
しかし、これらの最新のAIシステムも、従来の計算ツールと同様に、本質的には高品質なデータと既存システムとの適切な統合に依存しています。AIの性能は、それを支えるデータ基盤の質によって大きく左右されるのです。
モデルから医療へ
Mohamed bin Zayed University of Artificial Intelligence(MBZUAI)のCarlos Bustamante氏は、AIモデルをヨーロッパ系集団以外にも適用できるようにするためには、多様な集団を反映したゲノムデータが不可欠であることを強調しました。
トロント大学のAnna Goldenberg氏は、AIツールを実際の臨床ワークフローへ組み込む際の運用上の難しさについて指摘しました。
また、ミシガン大学のJenna Wiens氏は、AIによる臨床意思決定支援の可能性と課題について講演しました。AIは優れたパターン認識能力を備えていますが、その能力は人間の臨床判断と適切に組み合わせて活用する必要があります。さらにAIとのインターフェース設計次第で、医療の質を向上させることもあれば、逆に低下させてしまうこともあると説明しました。
ウェアラブルデバイスも、今回のカンファレンスにおける重要なテーマの一つでした。
オックスフォード大学のLaurent Servais氏は、子どもの脚の動きを追跡することで、筋疾患における新たなFDA承認の臨床評価指標(クリニカルエンドポイント)を確立した事例を紹介しました。
コペンハーゲン大学のRuth Loos氏は、汗由来のバイオマーカー測定、血圧や血糖値のモニタリングに加え、複数種類の加速度計を組み合わせたデータ収集プロトコルを紹介しました。これらの加速度計は、ほとんどのスマートウォッチでは十分に捉えられない自転車運動を含め、さまざまな身体活動を記録することができます。
Google Research、Google DeepMind、そしてMicrosoft Research による講演からは、大手テクノロジー企業がヘルスケアおよびバイオメディカル分野の未来に強い関心を寄せていることがうかがえました。それぞれ、診断画像や臨床意思決定支援、多様な健康データを学習したマルチモーダル基盤モデルなど、大規模AIシステムを医療データへ応用する先進的な取り組みを紹介しました。
今後数週間にわたり、HPP Globalカンファレンスで取り上げられたテーマをさらに詳しくご紹介していく予定です。
著者紹介
Rotem Gura Sadovsky はデータサイエンスのリーダーであり、Corundum Systems Biologyのデータ戦略責任者です。以前は、初期段階のバイオテックスタートアップにおいて計算生物学およびプロダクトマネジメントの職務に従事していました。Finch Therapeuticsでは初期のデータサイエンティストの一人として、臨床用生菌製剤(Live Bacterial Products)の開発に中心的役割を果たしました。彼の専門領域は、生体分子オミクス技術、ヒトコホートの臨床データ、バイオマーカー探索にわたります。MITで計算・システム生物学の博士号を取得しています。
Eran Segal Eran Segalは、ワイツマン科学研究所の教授であり、機械学習、計算生物学、多様な高スループットゲノムデータ解析の分野で高く評価されている研究室を率いています。彼の研究は、マイクロバイオーム、栄養、遺伝学、およびそれらが健康や疾患に与える影響に焦点を当てています。大規模コホートデータを活用し、一人ひとりに最適化された個別化医療の実現を目指しています。これまでに150本以上の学術論文を発表し、Overton Prizeをはじめとする数々の賞を受賞しています。以前はロックフェラー大学で研究に従事しました。テルアビブ大学で学士号を取得後、スタンフォード大学で博士号を取得しています。
安井さくら(インターン生)・千々岩 訳




